憂鬱から抜け出せないときには

私は人によく、感情を露わにしすぎる、と嗜められます。よく言えば素直なのでしょうが、得てして悪くとらえられることが多いのです。今日のようにやりきれなく憂鬱な時など、その感情がそのまま表情に出てしまうので、社会では周囲の人たちに気を遣わせる結果となりやすくなります。とにかく憂鬱なんだから仕方がない、と割り切れるほど図々しくもないので、こちらも気を遣って作り笑いをする。すると精神が非常に疲れる。それが続くと、病気になる。という悪循環がこれまでの常でした。それを断ち切る努力を長くしてきましたが、どうも体質上そういう努力そのものが悪い結果を作ってしまいがちなようです。というようなことを隠し立てもせずこういう場で書いてしまうところからして、感情のコントロールがヘタな証拠。つくづく社会生活に向いていない体質のように感じます。

この負の循環を断ち切る方法は、これまでの経験からだいたい分かっているつもりです。一般にも共通することのように感じますので、敢えてここで書き連ねてみたいと思います。まず、自主的に早起きすること。草臥れ果てている時は致し方ないですが、怠惰で布団に籠るとろくな結果になりません。仕事で致し方なく、しかもギリギリまで布団にしがみついてガバッと跳ね起き、大慌てで支度して家を飛び出るようですと、あまり意味がありません。30分でも良いので「自主的」に早起きし、一杯のコーヒーでもいれてみる時間が効果的。そして落ち着いて仕事へ向かう。傷病休暇中の私は出勤の縛りがないのでベッドに籠りがちになりますが、そこを押して早起きをすることが第一。分かっているのですが、なかなかこの第一歩が踏み出せないで困っています。

ここからは社会生活から離れている私の場合の話になってしまいますが、共通して言えるのは、「自分に引け目を感じないこと」だと思っています。私の場合は、創作することの一点に限られます。天気がよければ写真を撮る。撮影の気分でなければなにか書く。漫然と何度も観たDVDを流し見したりするのは良くありません。だから私はテレビというものを買ったことがありません。映画が観たければパソコンでも劇場でも観れる。それで十分なんです。とにかく自分に引け目を感じずに済む方法を見つけること。それが読書でも、ジョギングでも犬の散歩でも、こだわってコーヒーをいれることでも、単にゆっくりとシャワーを浴びることでもいいかもしれません。とにかく自分なりに自分に対して「よくやった」と思えることが大切です。

告白しますと、今日、私は病院の予約をすっぽかしてベッドに籠っていました。ここ数日間、体が非常に怠く、外出してもすぐに疲れきってしまいました。すると朝早起きする気力が失われます。そしてベッドに半日籠っていたりすると、なおさら体力が低下します。気分的にも鬱になります。その結果が、やりきれない憂鬱な気分として自分にのしかかってきます。悪循環にはまっているのが分かったので、解決策として着替えて軽い外出をし、簡単な用事を済ませ、それでも気分が治らなかったので家に戻り、コーヒーをいれて、いま音楽を聴きながらこのブログを書いています。少しずつ、気分が治って参りました。これを書き上げたら、ジャコメッリの資料を読むなり、文章を書くなりして、さらに回復に努めましょう。

私にとって、このようなブログを書かせていただけるというのは、自分の精神衛生上においても非常な効果がありますので、書かせていただけていることにとても感謝しています。昔、ある有名なミュージシャンは私をみて、「その負のエネルギーを創作に活かせ」と言い放ったことがありますが、随分無責任なことを言うもんだと思ったものです。確かに、詩人の叔母も、「本当の詩は本当の孤独からしか生まれない」と言っていますが、孤独と憂鬱ではずいぶんと違うのです。孤独の苦しみは創作に繋がります。しかし憂鬱ではなにもできません。言うなれば、孤独なだけではだめなのです。それに耐えうる強靭な精神力が必要です。創作の源泉にもいろんなものがあります。孤独など感じる必要もなく素晴らしい作品を残した芸術家はたくさんいます。確かに、私が共感する芸術家はジャンルを問わずなべて孤独な人たちでした。それを乗り越えて創られた作品からは、それが写真であれ絵画であれ音楽であれ詩や散文であれ、強い影響力を感じます。「わたし孤独なの」と媚を売るような作品ではありません。それを乗り越え、またはそれと共存しつつ創り上げられた力強い作品です。私もそれに近づければ、と願いつつ創作を行っています。

蛇足になりましたね。憂鬱は誰にでもやってくるものです。それへの対処法は人によってそれぞれでしょうが、負けないように頑張ることは共通しているはずです。皆さんも、憂鬱なんかに負けないで(元気であれとは言いません)、自分を褒められる方法を身につけましょう。